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鹿児島で特攻機を見送った100歳――「敵機が飛来した。木陰に逃げ込み無事だったが、高台に設置した機関砲の周りにいた隊員は黒焦げになったことを後から知った」【証言 語り継ぐ戦争】
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鹿児島で特攻機を見送った100歳――「敵機が飛来した。木陰に逃げ込み無事だったが、高台に設置した機関砲の周りにいた隊員は黒焦げになったことを後から知った」【証言 語り継ぐ戦争】

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■竹下治良さん(100)=薩摩川内市入来町副田

 乙種飛行予科練24期生として鹿児島海軍航空隊への入隊を翌月に控えた1944(昭和19)年11月、1年間勤めた宮之城郵便局(さつま町)を退職した。18歳の時だ。

 8歳上の長兄・良雄に勧められ、熊本逓信講習所(熊本市)に進学し就いた仕事だった。尋常高等小学校を卒業すると、家業を手伝う時代だ。給料を家に入れることはできたが、自宅から片道4キロの通勤中に会うのは女性や子ども、高齢者ばかりで、肩身の狭さを感じるようになった。憧れもあって予科練を志願した。

 入隊後は鹿児島市で、学科やモールス信号を使った通信を学んだ。成績が悪いと庭で腕立て伏せをさせられる。地面にはあらかじめ水がまかれていて、服が汚れると再び罰せられる仕組みになっていた。

 「機体がない」というのが理由だったと思う。45年2月末、地上勤務を命じられた。第一国分基地(霧島市)に配属され、爆弾を運ぶなど特攻機が飛び立つ前の準備を担った。自分も早く行きたいと思いながら、何人もの先輩隊員を見送った。

 4、5月ごろだったか。現在の鹿児島空港辺りにあった第二国分基地まで歩いて移動していた時に、初めて空襲に遭った。葉タバコ農園に隠れて難を逃れたが、低空飛行する敵機の操縦士の顔が見えた。ただただ恐ろしかった。

 第二基地で先輩の出撃を待っている間にも敵機が飛来した。木陰に逃げ込み無事だったが、基地を守るため高台に設置した機関砲の周りにいた隊員は黒焦げになったことを後から知った。

 6月に鹿屋航空隊に異動になると、間もなく白目が黄色っぽくなる黄疸(おうだん)の症状が出た。薬はなく、軍医からは飛行場での作業に行かず、防空壕(ごう)の中で寝起きするように言われた。

 8月のある日、壕の近くにあった弾薬庫の見張りを命じられた。うっかり眠ってしまったところを士官に見つかった。どんな罰を言い渡されるかとひやひやしたが音沙汰がない。理由が分からないでいると、翌朝、他の隊員とともに集められ「敵が上陸してくるから早く家に帰るように」と言い渡された。そこで初めて、戦争が終わったことを知った。

 帰郷してからは郵便局に再就職した。この道を勧めてくれた兄は、20歳で徴兵検査に甲種合格した。陸軍入隊後は大陸でノモンハン事件の後処理に当たったと聞く。満期除隊で一緒に暮らした時期もあったが再び徴兵され、45年5月にフィリピンで戦死した。遺骨の代わりに石ころだけが帰ってきた。

 年が離れていて、仲良く過ごした記憶はほとんどない。それでも戦死公報を受け取ってからしばらくは、帰ってくるのではないかと望みを捨てきれなかった。

 今の首相や防衛相を見ていると、また戦争を始めるのではないかと不安になる。戦争に巻き込まれて亡くなるのは市井の人だ。勝っても負けてもだめ。周りの国とうまく付き合えるよう、外交を大切にしてほしい。

(2026年9月30日付紙面掲載)

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