終戦翌日に官舎立ち退き命令、晴れ着をクッションに仕立て直し売り飢えしのぎ命からがら38度線突破――一面焼け野原の鹿児島に着き、敗戦を実感【証言 語り継ぐ戦争】
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■浜川(旧姓島本)量子さん(95)東京都練馬区=2回続きの㊦終戦から一夜明けた平壌では朝鮮人が日本の植民地支配からの解放を喜び、街じゅうを行進していた。1945(昭和20)年8月27日、3年余り暮らした病院官舎を翌日までに明け渡すようソ連軍の命令が下りた。立ち退きの日の夕方、軍医として出征していた父が奇跡的に帰ってきた。マラリアを患い、南朝鮮の陸軍病院で終戦を迎えていた。
周囲が反対する中、父は1人で家族の待つ北朝鮮へ戻った。戦中から問診のため朝鮮語を習得しており、それを生かして朝鮮人になりすましたそうだ。1歳の末弟を含めた家族8人で、母の妹一家7人が住む鉄道官舎に身を寄せた。ソ連兵らの暴行や強奪におびえ、息を潜めて暮らした。
秋にはそこも接収され、総勢15人で鉄道局の8畳間の独身寮に移った。他の日本人収容所では発疹チフスがまん延し、幼いいとこも命を落とした。飢えをしのぐため、晴れ着をクッションに仕立て直して売ることを思い付いた。ソ連軍将校の妻に高値で買い取ってもらえ、一家の支えになったことが誇らしかった。
終戦翌年の4月、元鉄道職員を対象に引き揚げの話が持ち上がった。医者の父が同行を求められ、一家で加わることになった。5月12日の夜、500人近くの集団で寮のすぐ裏手から貨物車に乗り込み、翌朝には北朝鮮最南端に到着した。
1日中歩いて北緯38度線近くの村に入ると、地元の人が設置した検査場があった。持ち物や身元を調べられ、赤ん坊を背負った若い女性は暗闇へ引きずられていった。元警察官の妻だと告白したらしい。
検査後の道では4、5人のソ連兵が銃を構え「女を出せ」と近づいてきた。若い女性は頭を丸刈りにして男装しており「ここには既婚者しかいない」と伝えても通じない。「金で解決しよう」と主張する父に対し、追い詰められた日本人男性の中には女性を差し出そうとする人がいた。
15歳の私は、おかっぱ頭にして小学生のように幼く見せていた。「年齢を聞かれたら12歳と答えるように」と父に教わっていたことも役立った。幸い、全員が持ち金全てを出すことでソ連兵は納得してゴーサインを出した。
「後ろを振り向くな! 突っ走れ!」。父の叫び声に背中を押され、必死に走って38度線を突破した。開城から貨物車で京城(現ソウル)に到着し、日本寺で食べたおむすびとみそ汁は格別の味だった。釜山を出航し、翌日には山口県の港に上陸した。
貨物列車で鹿児島市に着くと、一面の焼け野原だった。初めて見る光景に敗戦を実感した。父の実家は鹿児島市外にあり、しばらくは兄と2人で鹿児島市の親戚宅に下宿した。県立第二高等女学校3年に編入し、鹿児島弁が分からない引き揚げ者同士で仲良くなった。父が市内に病院を開業し、家族全員で暮らせるようになったのは47年の夏。ようやく戦争が終わった。
人間同士が殺し合うなんて本当に愚かなことだ。戦争は一度始めてしまうと止められない。だからこそ、絶対に始めてはいけない。
(2026年8月15日付紙面掲載)