「うちでセッターしないか」鹿児島の中学生が持っていた“もう一つの才能”…男子バレー遅咲き代表ルーキー河東祐大が“1カ月前の招集”でも適応できた理由
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激動の2カ月だった――。バレーボール男子日本代表のセッター、河東祐大(28歳)がアジア選手権に挑むA代表に合流したのはおよそ開幕の1カ月前。大会を終えると、すぐにアジア競技大会に参加した。
「振り返ると、一日一日、すごく大変でした。でも、刺激的な時間を過ごすことができたので。……ちょっとは殻を破れたかな、と思います」
直前での招集を“大抜擢”と捉えることはできるが、アタッカーとのコンビを合わせるセッターにとって残された時間は十分とは言えない。ましてや、アジア選手権は五輪出場権がかかる大舞台だ。ロラン・ティリ新監督での体制がスタートした昨季から「2026年のアジア選手権で出場権を得ること」を目標に掲げてきたチームに突然加わり、配球しなければならない。やりがいを感じながらも、司令塔として背負うプレッシャーは大きかった。
「自分、結構人見知りで(笑)。普段のコミュニケーションも自ら取るタイプではないんですけど、アジア選手権に向けて(A代表へ)合流して、1カ月しかなかったのでコミュニケーションを取らないとステップアップできない。それができないと生きていくのは厳しい場所なので、毎日必死でした」
そんな言葉とは裏腹に、アジア選手権で河東が見せたパフォーマンスは実に堂々としていた。
初戦のオマーン戦から2枚替えで宮浦健人と共にコートへ立ち、直後に高橋藍のバックアタックや小野寺太志の速攻など大胆に攻めて会場を沸かせた。もともと、ミドルからの攻撃を絡めたトスワークに定評はあるとはいえ、スパイクを打った小野寺もA代表のメインセッターを担った深津英臣も、河東の度胸ある選択を「あそこで上げるのがすごい」と称えた。
目まぐるしく展開の変わる試合の中で、“人見知り”を自認する河東がなぜこれほどの短期間でフィットできたのか。その要因の一つが、原点にあった。
河東がセッターに転向した高校時代だ。
中学3年までアタッカーとして鹿児島県選抜にも選ばれる選手だった河東に、「うちでセッターをしないか」と声をかけたのは当時、鹿児島商高を率いた田代博明だ。
技術は備えているものの、当時の身長は170センチ弱。アタッカーとしての将来を考えると厳しい。そう考えた田代は、河東の柔らかなハンドリングに目をつけた。そして、さらに重要な要素がもう一つあった。
「アタッカーの気持ちがわかるセッターを育てたかった。技術だけならば小さい頃からセッターだった子が勝るかもしれないですけど、アタッカーがどうしたいか、どこで打ちたいか、それがわかるセッターを育てたいと考えたときに当てはまったのが河東でした」
田代は、河東が入学する前に同県の川内商工高に異動したため、実は高校3年間を直接指導してきたわけではない。あくまで「きっかけをつくっただけ」と言うが、「丁寧に上げる技術と、真ん中を使う勇気を育んでほしい」と後を受け継ぐコーチに託し、セッターとして成長する環境を残した。
そこから着々とキャリアを重ねていけたのは、「河東の真面目さがあったからできたこと」と田代は謙遜するが、河東が披露した攻めのトスワークに当時のひらめきが重なり心が躍った。
「世界のあの舞台でも堂々とミドルを使う。いいセッターになったな、と思うと嬉しいんですよ」
激動の2カ月だった――。
バレーボール男子日本代表のセッター、河東祐大(28歳)がアジア選手権に挑むA代表に合流したのはおよそ開幕の1カ月前。大会を終えると、すぐにアジア競技大会に参加した。
「振り返ると、一日一日、すごく大変でした。でも、刺激的な時間を過ごすことができたので。……ちょっとは殻を破れたかな、と思います」
直前での招集を“大抜擢”と捉えることはできるが、アタッカーとのコンビを合わせるセッターにとって残された時間は十分とは言えない。ましてや、アジア選手権は五輪出場権がかかる大舞台だ。ロラン・ティリ新監督での体制がスタートした昨季から「2026年のアジア選手権で出場権を得ること」を目標に掲げてきたチームに突然加わり、配球しなければならない。やりがいを感じながらも、司令塔として背負うプレッシャーは大きかった。
「自分、結構人見知りで(笑)。普段のコミュニケーションも自ら取るタイプではないんですけど、アジア選手権に向けて(A代表へ)合流して、1カ月しかなかったのでコミュニケーションを取らないとステップアップできない。それができないと生きていくのは厳しい場所なので、毎日必死でした」
そんな言葉とは裏腹に、アジア選手権で河東が見せたパフォーマンスは実に堂々としていた。
初戦のオマーン戦から2枚替えで宮浦健人と共にコートへ立ち、直後に高橋藍のバックアタックや小野寺太志の速攻など大胆に攻めて会場を沸かせた。もともと、ミドルからの攻撃を絡めたトスワークに定評はあるとはいえ、スパイクを打った小野寺もA代表のメインセッターを担った深津英臣も、河東の度胸ある選択を「あそこで上げるのがすごい」と称えた。
目まぐるしく展開の変わる試合の中で、“人見知り”を自認する河東がなぜこれほどの短期間でフィットできたのか。その要因の一つが、原点にあった。
河東がセッターに転向した高校時代だ。
中学3年までアタッカーとして鹿児島県選抜にも選ばれる選手だった河東に、「うちでセッターをしないか」と声をかけたのは当時、鹿児島商高を率いた田代博明だ。
技術は備えているものの、当時の身長は170センチ弱。アタッカーとしての将来を考えると厳しい。そう考えた田代は、河東の柔らかなハンドリングに目をつけた。そして、さらに重要な要素がもう一つあった。
「アタッカーの気持ちがわかるセッターを育てたかった。技術だけならば小さい頃からセッターだった子が勝るかもしれないですけど、アタッカーがどうしたいか、どこで打ちたいか、それがわかるセッターを育てたいと考えたときに当てはまったのが河東でした」
田代は、河東が入学する前に同県の川内商工高に異動したため、実は高校3年間を直接指導してきたわけではない。あくまで「きっかけをつくっただけ」と言うが、「丁寧に上げる技術と、真ん中を使う勇気を育んでほしい」と後を受け継ぐコーチに託し、セッターとして成長する環境を残した。
そこから着々とキャリアを重ねていけたのは、「河東の真面目さがあったからできたこと」と田代は謙遜するが、河東が披露した攻めのトスワークに当時のひらめきが重なり心が躍った。
「世界のあの舞台でも堂々とミドルを使う。いいセッターになったな、と思うと嬉しいんですよ」
若手主体で挑んだアジア競技大会では、河東がメインセッターとしてすべての試合にスタメン出場した。7日で6試合をこなす日程は「データを頭に入れるのも大変だった」と漏らすほどのハードスケジュールだったが、真面目で丁寧で、時に大胆に、アタッカーの思いを汲んだ、河東らしさが随所で発揮された。
予選リーグのパキスタン戦では、サーブとパワフルな強打で攻めてくる相手に対し、サイドだけではなく、ラリー中からもミドルを使う。ラリーの最中にも身体はライト側に向けたまま、近い位置にいたオポジッ
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