戦争遺跡 「平和考える場で重要」 「身近な人の記憶の記録を」 あまみならでは学舎 瀬戸内町教委・鼎さん講演 鹿児島県
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鹿児島県立奄美図書館の「あまみならでは学舎」2026年度第4回講座が19日、同館であった。瀬戸内町教育委員会埋蔵文化財担当の鼎(かなえ)丈太郎主査(50)が講師を務め、「奄美群島の戦争遺跡」と題し講演。同町の遺跡群が国史跡となっている中、戦争が身近であったことを示す戦争遺跡(近代遺跡)を「平和を考える場」として残し、活用していく重要性を説いた。奄美大島の南端に位置する瀬戸内町は、リアス海岸で深い入り江を多く持つ大島海峡がある。鼎さんは「この大島海峡が瀬戸内町に存在することが、戦争遺跡が多く残る最大の理由」と認識する。
大島海峡に構築された戦争遺跡を時期ごとにみると、▽明治期=日本本土と沖縄、台湾、南洋諸島をつなぐ、航路上の重要な拠点。旧海軍は大島海峡を「東シナ海における重要な港」と考え、艦船用の物資補給施設や諸外国への海上監視施設などの軍事施設を構築(大島需品支庫跡、皆通埼望楼(ぼうろう)跡など)▽大正期=太平洋上の重要拠点として要塞(ようさい)建設地。旧陸軍は古仁屋に奄美大島要塞司令部を開庁。これにより大島海峡は日本の国土防衛上、重要拠点の一つに(西古見砲台(観測所)跡、手安弾薬本庫跡など)▽日中戦争からアジア太平洋戦争=日中戦争が始まると、その後、奄美大島要塞の一部に大砲が据えられる。アジア太平洋戦争直前の1941年9月には、旧陸軍部隊や陸軍病院が置かれ、軍備増強。旧海軍も加計呂麻島・瀬相に部隊(大島防備隊)を置き、様々な軍事施設(第18震洋隊など)を終戦直前まで構築――となる。
こうした構築物について鼎さんは「生活圏から遠いため、壊されることがなかった」と指摘し、戦争遺跡など近代遺跡の特徴として「先史遺跡(縄文時代などの遺跡)と違って、文献史料など遺跡の性格を把握する史料が豊富にある」「コンクリートが80年以上良好な状態を保っているなど、建築・土木学でも注目されている」を挙げた。
地元にある戦争遺跡を古仁屋高校生が調査してきたほか、研究分析で大学と連携、小中学生向けの講座など活用事例も報告。重要な歴史資料として未来に残すための保存・活用の取り組みを進めていることを強調するとともに、鼎さんは記憶の伝承についても触れた。「記憶の伝承は、戦争遺跡より消滅の危機にひんしている」として、「公的機関や研究機関での調査・研究では、個人の記憶を保存していくことは困難。島民の皆さん一人一人が調査員となり、身近な人(戦争体験者)の記憶の記録をしてほしい」と呼びかけた。
奄美図書館によると、今回の講座は55人が聴講。瀬戸内町だけでなく奄美市名瀬地区の遺跡についての質問もあった。