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疎開の支度をして寝入った6月17日夜―東の空から米軍爆撃機の巨体、山にぶつかるほどの低空飛行で兵士の顔が見えた気がした…あれが鹿児島大空襲だった【証言 語り継ぐ戦争】
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疎開の支度をして寝入った6月17日夜―東の空から米軍爆撃機の巨体、山にぶつかるほどの低空飛行で兵士の顔が見えた気がした…あれが鹿児島大空襲だった【証言 語り継ぐ戦争】

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■邦永和雄さん(92)=鹿児島市下竜尾町

 鹿児島市の大龍国民学校6年生だった1945(昭和20)年、母と姉2人と妹は母の実家があった熊本県八代市に疎開し、私だけが栄町(現在の柳町)で父と暮らしていた。両親は一人息子の私を残し、家を守ろうと考えたのかもしれない。寂しくはなかった。

 所帯が小さくなることもあって、近くに小さな家を借りて引っ越した。裏にあった酒屋の高い石塀が倒れてこないかと、心配だったのを幼心ながら覚えている。

 春ごろから市内もしばしば空襲に見舞われるようになった。いよいよ私も疎開することになり、7歳上の長姉が迎えに来たのが6月17日、鹿児島大空襲の日だった。

 家で疎開の支度をして寝入った後の午後11時過ぎ、姉に起こされて空襲を知った。一緒に逃げ出したが、父は家に残った。近くの小坂通りに出ると、東の鹿児島駅方向の空から爆撃機の巨体が迫ってきた。山にぶつかるのではないかと思うほどの低空飛行で、機首にいる兵士の顔が見えた気がする。恐ろしかった。

 無我夢中で姉と2人、通りの角にあった防空壕(ごう)に逃げ込んだが、中はひざ丈まで水がたまっていた。だからといって外に出ることはできない。そのうち小便がしたくなり、姉に言われて仕方なくそこで用を足したが、気持ち悪かった。

 空襲自体、それまでも何度か経験していた。登校した早々に警報が鳴り、南洲墓地まで逃げて墓石の陰から、米軍の双発機が鹿児島湾に浮かぶ船を銃撃するのを見たこともある。しかし、この夜は様子が違って機銃の音はせず、ゴーッという低い音が響き続けていた。不気味な音だった。

 夜明け前に帰ると、酒屋のおじさんが父に「ここは燃えんかった」と話したのを覚えている。家は無事だった。裏通りを挟んだ風呂屋や寺は焼け落ちており、運が良かったと思う。

 鹿児島駅に行くと、焼け出された人や避難する人でごった返していた。その中に顔見知りの理髪店のおばさんが寝間着姿でいるのを見て、気の毒でならなかった。

 姉が切符を買っていたので、その日のうちに汽車に乗ることができて八代に疎開した。

 この時は難を免れたわが家や酒屋もその後の空襲で焼け、翌年春に疎開先から戻ると市内は焼け野原となっていた。亡くなった同級生もいたが、無事に終戦を迎えられたのは本当に運が良かった。

 戦後しばらくは鴨池に住むことになり、近くに進駐軍がいた。憎い敵で恐ろしいと思った米兵だが、じかに見ると気さくな若者だった。少し前までの自分は兵隊さんに憧れ、手りゅう弾を模した「短棒投げ」の教練に励む軍国少年だった。戦前の教育のせいで思い込まされていたのだろう。

 世界中で戦争が絶えない。最近は奄美群島に部隊が配備されるなど、きな臭くなってきた。また戦争に引きずり込まれはしないかと心配でならない。

(2026年6月17日付紙面掲載)