カゴミル 鹿児島の今のニュースを、まとめて。

← 一覧
慚愧の念…活きている碑文 鹿児島県の桜島噴火、島民は予期し自主避難 門井慶喜の史々周国
自然・火山 産経新聞 👁 7

慚愧の念…活きている碑文 鹿児島県の桜島噴火、島民は予期し自主避難 門井慶喜の史々周国

📰 全文
どうすれば名文が書けるか。

言いかえるなら、どうすれば文章で人の胸を打つことができるか。もちろん技術は大事だし、ふだんから古今の名作に親しんで語彙や言いまわしの貯金をするのも大事である。だがじつは、それより重要なのは重圧かもしれない。書き手の心のなかで何としてもこれだけは伝えたい、伝えずには死ねないという強い重圧が生まれたときにこそ感動の文章が成り立つのかもしれない。

などということを考えたのは、桜島にある記念碑の碑文を読んだからである。

内容は以下のとおり。大正三(一九一四)年一月十二日、桜島が爆発して八つの部落を全滅させ、百四十人の死傷者を出した。その数日前から地震が頻発し、海に湯が湧き、火口から白煙が上がっていたので東桜島村の村長は島外の測候所に問い合わせたけれども、「噴火はしない」との返事だったので、住民へは「避難の必要なし」と諭達した。

しかしまもなく大爆発した。碑文のしめくくりはこうである。市坪弘『火山灰に生きる』(中公新書)から引用する。

《本島の爆発は、古来歴史に照らし、後日復亦(また)免(まぬか)れざるは必然のことなるべし。住民は理論に信頼せず、異変を認知する時は、未然に避難の用意、尤(もっと)も肝要とし、平素勤倹産(さん)を治め、何時(いつ)変災に値(あふ)も、路途に迷わざる覚悟なかるべからず。茲(ここ)に碑を建て以て記念とす》

原文はカタカナ書き。ルビは私が仮におぎなった。文語文の調子の高さもさることながら、何と言っても苛烈なのは「路途に迷わざる覚悟なかるべからず」の三重否定である。

これを現代日本語で「路頭に迷わないと覚悟しろ」とやったのでは、意味は近いにしても、覚悟の深さがちがう。この文を草したのは生き残った村長その人かと思われるが、彼にはたぶん、結果的にではあっても、虚聞を流布して取り返しのつかぬ人的被害を出したことへの慚愧(ざんぎ)の念が強かったのだろう。彼はここでは「逃げろ」と言っているのではない。ひとりひとりが強い意志と準備でもって行動しろと言っているのだ。

ところで私は、それはそれとして、ひとつ不思議に思うことがある。

「理論に信頼せず」の一句である。ここでの「理論」が一種の婉曲(えんきょく)表現であることは当然としても、実際のところ、当時の住民は全員が全員「理論」を「信頼」したのだろうか。

なぜなら当時は、まだまだ農業や漁業の従事者が多かった。彼らはふだん測候所の存在をあまり意識していない上、噴火の予兆に関しては先祖の言い伝えがある。いくら村長に「大丈夫」と太鼓判を押されたからといって、はいそうですかと家でぼんやり地震にゆられつづけたとは想像しづらいのである。

この点については、のちに鉄道院のまとめた『大正三年桜島噴火記事』という本が示唆に富んでいる。私の言葉で取り次ぐと、一月十一日、つまり噴火二日前、午後七時ころより異様な地鳴りが起きはじめた。

島民は、このとき予期していた。複数の部落で話し合いがあり、避難が始まった。海岸に船を集めて最初に老幼婦女を、最後に壮年の男子をと順序を立てて送り出した。これで島民のかなりの部分がその日のうちに対岸の垂水(たるみず)港に着いたのである(言い遅れたが、この当時の桜島は文字どおりの島で、現在のように本土と地つづきではなかった。この噴火の溶岩でつながったのである)。

すなわち現実には、過半の島民はちゃんと自分で判断し行動していたのだった。ただし一部の人はそうではなかった。同書は「比較的開拓せられたる者」と微妙な言いかたをしているが、要するに教育ある人ということだろう。文明を知り、新技術に関心を持つような進んだ人がかえって測候所を信頼したが故に逃げ遅れたのである。海岸は大混乱したという。命を落とした人も多かっただろう。

石碑の建立から、もう百年以上も経っている。

実際の経緯を知ってしまったら村長渾身(こんしん)の三重否定もいささか色あせて見えぬこともないが、ひるがえって現代の私たちはどうか。もはや言い伝えや住民どうしの話し合いで整然と避難することもできず、そのかわり政府や自治体の発する情報ならスマホで手軽に得ることができる。いわばポケットに測候所を入れて歩いている私たちは。