溶岩に家を焼かれても…桜島の麓に住む103歳トミ子ばあちゃんの噴火と生きた1世紀 火山と風向きに翻弄される生活、それでも離れられない“想い”
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灰が降っても、溶岩で家を焼かれても、やっぱり桜島で暮らしたい―。日本で最も活発な火山「桜島」の麓で暮らすトミ子おばあちゃん、103歳。大正大噴火の8年後に鹿児島県の桜島で生まれ、24歳で昭和噴火を経験。建てたばかりの自宅は灼熱の溶岩流に焼かれ飲み込まれてしまった。それでも「桜島に戻ればなんとかなる」と桜島で5人の子供を育てた。
100歳を超えた今も火口から4kmの自宅で灰を払い、日向ぼっこをしながら過ごす。過疎化や噴火の危機と向き合いながら記憶を語り継ぐ姿を通し、故郷を愛し力強く生き抜く103年の足跡と日常を追った。
灰が降っても、溶岩で家を焼かれても、やっぱり桜島で暮らしたい―。日本で最も活発な火山「桜島」の麓で暮らすトミ子おばあちゃん、103歳。
大正大噴火の8年後に鹿児島県の桜島で生まれ、24歳で昭和噴火を経験。建てたばかりの自宅は灼熱の溶岩流に焼かれ飲み込まれてしまった。それでも「桜島に戻ればなんとかなる」と桜島で5人の子供を育てた。
100歳を超えた今も火口から4kmの自宅で灰を払い、日向ぼっこをしながら過ごす。過疎化や噴火の危機と向き合いながら記憶を語り継ぐ姿を通し、故郷を愛し力強く生き抜く103年の足跡と日常を追った。
人口およそ58万人の鹿児島市。桜島は海を隔てて4キロ先、鹿児島湾のほぼ真ん中に位置する。
火口から4キロのところにあるのがトミ子ばあちゃんの暮らす黒神集落だ。度重なる火山噴火で過疎化も進み、今ここで暮らしているのは80人ほどだ。
集落のシンボルともいえる黒神埋没鳥居。トミ子ばあちゃんはこの鳥居のすぐそばで、一人暮らしをしている。近くにお店がないため、食料などの生活必需品は隣の集落に住む娘さんが頼りだ。
夫の辰雄さんが亡くなっておよそ30年、一緒に暮らしていた孫やひ孫たちも、学校を卒業して離れて暮らしている。
暖かい日は、日向ぼっこをするのが日課だ。
「いつもこんな感じ?」山野洋介記者
「うん。天気がいいなあ」トミ子さん
「天気がいい時は一日ここでのんびりしているんですか」記者
「ここでのんびりしてヨカニセ(かっこいい男の人)は通らんかねえって(笑)」トミ子さん
通るのはなじみの猫と、迷い込んできた観光客の車くらいだ。
最近、ちょっぴり不満なことがある。それは木が伸びて桜島が見えなくなってしまったこと。「やっぱり桜島が見えないと。見えないからいいけど、見えたら気になる。風はどっちか?風はこっちかって」(トミ子さん、以下同)
20世紀以降、桜島は溶岩の流出を伴う2度の大噴火をしている。1914年の「桜島大正大噴火」、そして1946年(昭和21年)の「昭和噴火」だ。
トミ子ばあちゃんが生まれたのは1922年で、大正大噴火のわずか8年後だった。昭和の噴火を経験したのは24歳の時だ。
「夜寝ていたらチャラチャラ音がした。なんだろうか。そうしたら溶岩が流れてくるところだった。近くまで溶岩が流れてきていても気づかなかった」
1946年3月、昭和火口から流れ出た溶岩で、トミ子さんの暮らす黒神集落は埋まってしまった。
「(溶岩が)出てきた。どろどろどろ。その下の方に家を作っていた。それも作ったまま。溶岩の下敷き。(溶岩が)家に来る前、行かないぞ、見ないぞ。溶岩が家まで来て燃えるのを見たくなかった」
トミ子さんの集落は全滅した。それでも「どうにかなるから桜島に帰る」。牛を飼ったり、大島紬を織ったりしながら、苦労して5人の子供たちを育て上げた。トミ子さんは「貧乏のどん底に落ちて、明日の米がない、明日の芋がない。どうしようかと考えたことが何回かあった」と振り返る。
1970年代から桜島の噴火活動が再び活発になった。多量の火山灰が鹿児島市街地にも降り、1986年には火口から4キロ離れたホテルに噴石が落下、フロントに大きな穴が開き、けが人も出た。
当時、噴火の被害を泊まり込みで取材した山野洋介記者。その時にお世話になったのが黒神のトミ子さんの家だった。これがトミ子さんとの出会い。今から37年前、トミ子さんが当時66歳の時だった。エネルギッシュで桜島愛が強いトミ子さんにすっかり魅せられ、その後も取材が続いていった。
2006年、活動が収まっていた昭和火口で小規模な噴火が起き、次第に活発化していった。2014年、桜島の大正大噴火100年を機会に黒神を再び取材した。トミ子ばあちゃん92歳の時だ。
当時はトミ子ばあちゃんの家から昭和火口がよく見えた。毎朝の日課は風を見ること。「西の風だと灰がこっちに来る」。
この頃は薪でお風呂を沸かしていた。一緒に作業をしているのは、隣の集落に住んでトミ子ばあちゃんの面倒を見ている四女の明美さんだ。
作業中、突如として噴火が発生し、空へと黒煙が立ち上った。視覚的な光景から少し遅れてドーンと大きな音が響き渡り、続いてドーン、ドーンと2回の空振が連続して押し寄せた。
風の向きが気になるトミ子さん。「(噴煙の)根元があっちに行っているから(灰は)避けるかも」。
過去の噴火を教訓に、桜島では毎年、大噴火を想定した訓練を行っている。この年(2013年取材)はその訓練の最中に爆発が起き、降ってきたのは直径数ミリの火山礫(かざんれき)だった。
この頃、昭和火口では爆発が頻繁に起きていた。トミ子ばあちゃんの家から見た夜の爆発の写真を見せてもらうと、そこには激しく発光する噴煙や大きく膨らむマグマが写っており、周囲には細かな火花が飛び散っていた。驚くかもしれないが、こうした山頂火口の活動は桜島の住民にとって「日常」の景色だ。
しかし、大正3年(1914年)に起きた「大正大噴火」はその規模がまったく違うものだった。桜島の西側と東側の山腹が割れて新たな火口を形成。多量の火山灰や軽石が降り、「島」だった桜島は流れ出した溶岩によって大隅半島と陸続きになった。死者・行方不明者は58人。黒神集落にも軽石や火山灰が降り、高さ3メートルの神社の鳥居も埋まってしまった。
鹿児島湾の直下には今、その大正大噴火の頃と同様の規模でマグマが蓄積していると専門家は指摘している。
トミ子ばあちゃんは、ことあるごとに昔の噴火の様子を子や孫に伝えている。大正大噴火は母親からの聞き伝えだ。
「避難する船が着いた時、こんなに深い場所、海に軽石が浮いていて、逃げたい一心で(陸だと思って)降りた人たちはみんな亡くなった。陸に着いたと思って船を降りたらボコボコボコって沈んでいったの」
「降灰の流れとか軽石が流れてくるとか、流れに気をつけて、風の向きに気をつけて」
「大噴火の前触れがあるだろうと思う。井戸水が吹き出したり、魚が死んで浮かんでいたり」
毎年行われている大噴火を想定した訓練。2012年時の訓練でトミ子ばあちゃんは車いすで参加した。
「どんなふうに溶岩が出るか、どんなふうに軽石が降るのか。いざ逃げる時に訓練通りに逃げられるか。噴き始めてからはだめ。前もって避難をしないと」
2015年8月、桜島で直下型の地震が発生し、噴火警戒レベルが初めて「4」に引き上げられた。
現場の
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