カゴミル 鹿児島の今のニュースを、まとめて。

← 一覧
「逃げるのに精一杯で、それどころではなかった」 鹿児島大空襲から81年、9歳で焼夷弾3発を体験した90歳男性の証言
総合 FNNプライムオンライン 👁 3

「逃げるのに精一杯で、それどころではなかった」 鹿児島大空襲から81年、9歳で焼夷弾3発を体験した90歳男性の証言

📰 全文
太平洋戦争末期、鹿児島市では度重なる空襲によって3000人以上が命を落とした。あれから81年。「逃げるのに精一杯で、それどころではなかった」「友達が死んだことを悲しむ余裕はなかった」――当時を知る2人の男性の言葉は、戦争がいかに人間の感情をも奪い去るものであるかを静かに、しかし鮮烈に伝えている。

鹿児島市堀江町に住む国生次男さん(90)は、1945年6月17日の鹿児島大空襲を9歳で体験した。一夜で2300人以上が命を落としたその夜、国生さんの家にも焼夷弾が3発落ち、炎に包まれた。

「家にも焼夷弾が3発落ちて燃え上がって逃げた」と国生さんは振り返る。死への恐怖はあったのか。「逃げるのに精一杯で、それどころではなかった」。

天文館のすぐ近く、国生さんの自宅から歩いて1分ほどの場所には、鹿児島空襲の慰霊碑がある。知り合いの犠牲者は多かったという。「たくさんいる。ほとんどが焼け死んだ」。

この慰霊碑は2004年に建立された。中心メンバーとなったのは、関東鹿児島県人会の幹事長などを務めた春成幸男さんだ。建立当時、春成さんはこう語っていた。「空襲の事実を風化させないように残してあげたい」。

春成さんが大空襲を体験したのは、軍への志願を決め、家族に別れを告げるために東京から帰省したその夜のことだった。疎開していた兄弟たちも春成さんに会うために鹿児島市へ戻ってきた。しかし、その夜に空襲が起きた。両親、妹たち、弟たち。春成さんを除く家族7人全員が命を落とした。

「私が東京から帰っていなければ家族は疎開していたのに。その思いをずっと引きずって100歳になった」。春成さんは2025年9月、百歳でこの世を去った。鹿児島テレビがその2カ月前に言葉を聞いていた。

春成さんの弟・敏明さんと小学校でクラスメイトだった野口達彦さん(93)は、現在、姶良市に暮らしている。大空襲の翌日、敏明さんの死を知らされた。「『春成君が防空壕の中で死んでいたよ』と。同級生の死を悼む気持ちではなくて、自分は助かったな、だけです」。友人を悼む余裕は「なかったです」と野口さんは言う。

空襲の夜、野口さんは家族とともに鹿児島市役所へ逃げ込んだ。石造りのため焼夷弾では燃えない。しかし、市役所の外には凄惨な光景が広がっていた。「『助けてー』と叫びながら、ここでバタバタ倒れていた。まるで生き地獄でした」。

それでも手を差し伸べることはできなかった。「焼夷弾が落ちてくるんです。救いようがないんですよ」。自分が生き延びることに精一杯で、人の死を悼む感情すら失っていく。「当たり前でした。死ぬ人を見ることは」という野口さんの言葉が、戦争の本質を突きつける。

鹿児島市に立つ慰霊碑は、春成さんが逝った今もその場所にある。体験者の声を直接聞ける機会は、確実に少なくなっている。