鹿児島市中心部の空襲、父と裏山から見た桜島は…真っ暗な山並みの先で街のあちこちから火が上がり――赤々と浮き上がっていた【証言 語り継ぐ戦争】
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■夏迫 勇さん(86)=鹿児島市小山田町鹿児島市街地を離れて10キロ余り、旧伊敷村小山田段ノ山の郡山街道(現在の国道328号の一部)沿いにわが家はあった。父はまだ20代だったが胸を患って兵隊に取られず、両親と祖母、長男で就学前だった私を含む子ども3人の6人家族だった。
道路脇に「タコツボ」と呼ばれる塹壕(ざんごう)がいくつもあった。敵が上陸したときに、ここに潜んで迎え撃つためだったのだろうが、子どもはよく隠れて遊んでいた。
銃を担いだ大勢の兵隊さんが行軍する様子も見た。ある暑い日、その中の数人が家を訪れ、井戸で行水をしたことがある。その人たちに「夫婦一緒でうらやましい」と言われたと、両親が話したのを覚えている。今となっては幸いだったが、同世代が応召する中で残された父の心中は複雑だっただろうと思う。
米軍機の機銃掃射にも遭遇した。家から東側の山を越えて田んぼのある平地に姿を現すと、急に高度を下げて撃ってきた。パイロットの顔も見えた。昼間だったので家族みんなで防空壕(ぼうくうごう)に逃げ込んだが、まだ2歳だった弟が逃げ遅れた。幸い無事だったものの、弟の泣き叫ぶ声と両親の慌てた顔は忘れられない。
市中心部が空襲に遭ったときは、夜中に父と裏山に登って遠くを眺めた。真っ暗な山並みの向こうで街のあちこちから火が上がり、桜島が赤々と浮き上がって見えた。
その頃から、集落に市内から避難してくる人が増えた。つてのある人は農家の釜小屋や納屋を借りて住んでいたが、中には竹で組んだ小屋で寝泊まりし、道路脇で煮炊きをしている人もいた。
日ごとに避難者が増えていたある日、わが家も一家で逃げることになった。荷車に鍋釜などを積み、牛に引かせて急坂を3キロほど進み、郡山の山奥に入った。今は木や竹が茂っているが、当時は畑地だった一角に蚊帳を張った。
8月15日前後だったのだろう。集落に「米軍が近くに迫っている」とのうわさが流れ、それぞれ逃げたらしい。終戦を知らせるラジオ放送は聞いていない。
山中では、昼は静かに畑仕事をし、夜は息を潜めて野宿で2晩過ごした。今ならキャンプ気分かもしれないが「敵に見つかるかもしれない」と追い詰められた気持ちでとても怖かった。
父が山を下りて戦争が終わったことが分かり、みんなで家に戻った。集落には避難者がたくさん残っていた。
翌年春に入学したが当初は国民学校のままで、学校には天皇陛下の写真を収めた奉安殿もあった。それでも、上の世代のように「兵隊さんになりたい」と考えたことはなかった。子どもながらに「戦争は怖い」という思いの方が強かった。
ニュースでパレスチナなどの難民キャンプの様子を見ると、終戦前後に近所の道路脇で煮炊きしていた人たちの姿を思い出す。戦争のない世界を願わずにはいられない。
(2026年8月13日付紙面掲載)