元ソニー技術者が祖母の味を復活させた 19年ぶり「桃源ラーメン」再開の軌跡【鹿児島】
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南九州最大の繁華街・天文館の夜を締めくくる一杯として、多くの人に愛された「桃源ラーメン」が19年の眠りから覚めた。復活を成し遂げたのは、創業者の孫で、つい最近まで世界を飛び回るソニーの技術者だった男性だ。畑違いの挑戦に踏み出した背景には、幼い頃から刻まれた味への執着と、「このまま死滅させるわけにはいかない」という強い使命感があった。天文館に桃源ラーメンが産声を上げたのは1958年のことだ。午前3時まで営業し、お酒を楽しんだ人々が締めの一杯を求めてのれんをくぐる——そんな夜の顔として、長年にわたって地元の人々に親しまれてきた。
創業者は浜川昌子さん。その後、息子の紘和さんが店を引き継いだが、紘和さんが病気となり、2007年に閉店。多くのファンが惜しむ中、店は静かにその歴史に幕を下ろした。それから19年の月日が流れた。
2026年5月、桃源ラーメンは鹿児島市の高見馬場交差点近くに復活した。オーナーとなったのは、創業者・昌子さんの孫、浜川学さん(59)だ。
学さんはソニーの技術者として長年活躍し、仕事で訪れた国は実に23カ国にのぼる。世界中を飛び回る中で、行く先々の麺類を食べ続けてきた。しかし、どこに行っても心の中に残り続けたのは、祖母と父が作ったあの味だった。
「仕事で行った国が23カ国くらい。行った先々でラーメン、麺類を食べて、やはり桃源ラーメンの味がおいしかった。みんなに愛された味だし、食べてもらいたい味なので、このまま死なせるというか死滅させるわけにはいかないと思っていた」
2025年3月、学さんはソニーを早期退職した。そして1年余りの準備期間を経て、祖母と父が作り上げた老舗を鹿児島の地に蘇らせた。
復活への道のりは、決して順風満帆ではなかった。店を手伝う母・弘子さん(83)は、当初、再開に強く反対していた。
「『もうしないで、大変だから。体を壊すからしないで』と」
弘子さんがそう語る背景には、かつての苦労を知るゆえの心配があったのだろう。しかし学さんの決意は揺るがなかった。「ですよねえ」と苦笑いする弘子さんの言葉に、その固さが滲み出る。
実は、チャーシューやタレなどかつての桃源のレシピは、弘子さんの頭の中に記憶されていた。しかし、ラーメンはあらゆる食材や調味料の集合体だ。記憶をたどるだけでは、あの味の完全な再現には至らなかった。
ここで力を発揮したのが、ソニー時代に培った技術者としての資質だった。学さんは親戚を集めた試食会を10回以上開き、毎回のフィードバックをもとに味の改善を重ねた。
「親戚の試食会を10回ぐらいやっている。(何度も)NGが出ている。何が原因で違ってくるのか、なんでこんな味なのか、毎回失敗しながら対策しているので、そういう意味では(ソニー時代の)設計に似ているところが多分にある」
問題を分析し、原因を特定し、対策を講じて検証する。製品開発の現場で繰り返してきたその思考プロセスが、ラーメンの味の再現にそのまま応用されたのだ。「ネクタイをする感覚とエプロンをして帽子をかぶるのは似たような感覚で自分的には変わらない」という学さんの言葉には、職種の違いを超えた一貫した姿勢がある。
こうして完成した桃源のラーメンには、創業以来の伝統スタイルが受け継がれている。麺を下から大胆にかき混ぜ、スープと底のタレをからませる食べ方だ。かつての桃源を知る人々からは「懐かしい」とお墨付きをもらい、反対していた母・弘子さんも顔をほころばせる。
「それはすごくうれしい。(昔の)客もすごく喜ぶし、『元気だったんだ、いくつになりました?』と」
開店後、店には世代を超えた客が次々と訪れた。かつての常連も、桃源を知らない若い世代も、共通するのは「ラーメンが好き」という一点だ。
ある客はこう語った。「初めて食べるのに懐かしい、ルーツを感じるような。混ぜると何段も味の深みが増すようでとてもおいしいです」。また別の客は「慣れ親しんだ味という感じ。19年前に閉まっていて本当なら食べられないので、復活して食べられて良かった」と話した。
祖母の味を守り、父の意志を受け継いだ復活劇を成し遂げた学さんだが、次の目標はすでに見えている。かつての桃源の味を再現することを起点としながら、さらにその先——「自分のラーメン」の開発へと歩みを進めようとしているのだ。
「当時愛されていた味を皆さんにもう一度味わってもらうことが一番。その上で心を込めて味を良くして、一人でも多くの人が『桃源ラーメンに来て良かった』と思えるような味を作り続けたい。『今後の残りの人生はラーメンに全てを注ぎ込む』という気持ちでいます」
23カ国を渡り歩いた元技術者は今、鹿児島市の高見馬場でエプロンを締め、スープの鍋に向き合っている。天文館の夜を彩った老舗の灯は、孫の手によって再び燃え始めた。