沖縄、日本復帰から54年――鹿児島関係者、交流深化と平和への思い新たに
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沖縄が日本に復帰してから15日で54年を迎えた。沖縄にゆかりのある鹿児島県民や沖縄在住の鹿児島関係者は復帰の歴史を振り返り、隣県との交流深化を望んだ。今も続く米軍基地問題については複雑な感情をのぞかせながら、平和への思いを新たにした。奄美市のライター兼農家で、沖縄県伊江村出身の友寄貞丸さん(66)は日本復帰の1972年当時、中学1年だった。米ドルの通貨交換があり、初めて日本円を見た。曽於市出身の元衆院議員で沖縄振興に尽力した故山中貞則さんが復帰前に来島した際は、日の丸の旗を振らされた記憶がある。「国が変わったとしても、大きな力に住民が従う構図は変わらないのだろうと違和感を持った」という。
3月に名護市辺野古沖で研修旅行中の高校生ら2人が亡くなった船の転覆事故では、インターネットなどで平和教育・運動への批判が先鋭化した。「事故はあってはいけないが、『沖縄は政府の方針通りに米軍基地を受け入れろ』『文句を言うな』との意識が顕在化した」と指摘する。
沖縄県には在日米軍専用施設の7割が集中する。基地周辺では有害な有機フッ素化合物(PFAS)の検出が相次ぐが、米軍が拒否し、県は立ち入り調査ができない。「日米地位協定で米軍は大きな権力を持つ。本当に日本へ復帰したと言えるのか」と問いかける。
沖縄県浦添市の青山惠昭さん(82)は台湾に生まれ、母の故郷・国頭村で育った。本籍地は父と同じ与論。米軍統治下の沖縄では変更が許されず、「非琉球人」として生活保護を受けられないといった扱いを受けた。「殺人や盗みが起きると、沖縄の人に『(奄美)大島がやった』と言われた」と差別にも苦しんだ。
復帰後の沖縄は、基地問題など米国と日本政府との外交政策に焦点が当たる。「奄美出身者が差別された事実が忘れられつつある。復帰の日に奄美の暗い歴史にも思いをはせてほしい」
与論町の市村博司さん(64)は小学生の頃、「沖縄返せ」と歌いながら行進した。与論と沖縄本島最北端の国頭村は交流が盛んだった。しかし1953年、奄美群島の日本復帰で「国境」ができた。「大人は暗号で密航の情報を共有していた。沖縄が復帰して自由に行き来できるようになり、うれしかった」と話す。
5月1日に与論であった十五夜踊りでは、姉妹都市盟約を結ぶ国頭の「奥間獅子舞保存会」が初めて演じた。与論十五夜踊り保存会長を務める市村さんは「いつか国頭で踊りを披露したい」とさらなる交流を望む。
復帰1周年を記念して那覇市が鹿児島市に贈ったリュウキュウマツが、同市吉野町の海岸沿いで枝を広げている。14日は同市の不動産業吉見晃さん(67)が周辺の草を刈っていた。父昭二さんが清掃を始め、亡くなった後に引き継いだ。
吉見さんは宜野湾市の米軍普天間飛行場のそばで中学1年まで暮らした。米軍機の騒音を経験した一方、軍関連の職に就く地元の人々の姿も見た。「基地問題はいろいろな立場がありコメントが難しいが、沖縄の人にとって平和で安全な社会の実現を願う」と語った。